日本一おかき処 播磨屋本店社主 播磨屋助次郎
播磨屋助次郎のWEB美術館 「大観・春草コレクション」

 若い日、岡倉天心の「茶の本」に、衝撃的とも言える深く強い感銘を受けました。更にその縁続きで、横山大観・菱田春草の大いなる芸術に触れ、完全に魂を奪われてしまいました。そして身分不相応は百も承知の上で、近代日本画壇を代表する両巨匠の作品を、万難を排して一点また一点と買い求めていったのでした。

 私播磨屋助次郎の人生は、天心と大観・春草が導いてくれたと言っても過言ではなく、心から感謝せずにはいられません。穏やかで豊かな真に人間らしい人生を生きる上で、何より一番大切な「心の自然」を、開眼させてくれたからです。

 当WEB美術館は、そんな播磨屋本店の大観・春草コレクションの中からそれぞれ一点ずつを、年4回の春夏秋冬展として展示紹介してゆくものです。作品の解説は、私播磨屋助次郎が担当させて頂きます。ご来館者各位の「心の自然」を、ほんの少しでも呼び覚まし得るなら望外の幸せです。

2014年 春季展


 世直し活動に専念するため、WEB美術館は当分の間休館させて頂きます。
館長 播磨屋助次郎 敬白     

 

 

2013年 冬季展

「李白観瀑」
大正13年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 128.0cm×41.7cm
李白観瀑

 

 

横山大観 横山大観 明治元(1868)― 昭和33(1958)

水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸市に生まれる。幼名秀蔵、のち秀松、長じて母方の横山姓を継ぎ秀麿と改める。明治11年に一家で上京、22年、岡倉天心を学長として新設された東京美術学校に、第一期生として入学、在学中からその天分を認められる。26年の卒業制作《村童観猿翁》は、最高点をとった。その後下村観山、菱田春草らと母校で図案科助教授として教鞭をとるが、31年の美術学校騒動で春草らと共に連袂辞職、これを契機とした天心の日本美術院に参加、新日本画創造のため種々の試みを行う。特に色彩を主とする没骨描法は朦朧体と呼ばれ在来画法を支持する旧派から批判されたが、一歩もひくことなく次々に新しい表現様式への脱皮に心を砕いた。大正3年日本美術院を再興し、その中心的存在として天心理想の実践につとめた。さらに水墨画に新しい開拓を試み、東洋画的境地を追求していく。それは写実主義に対する、象徴的精神主義といえる立場であった。昭和期に入って急に数を増す「富士山」の連作は、大観にとって日本の象徴であり、師岡倉天心であり、自らの心の反映であった。昭和12年第一回文化勲章受章。昭和33年2月没。享年89歳。

「晩秋」
明治43年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 115.0cm×50.0cm
晩秋

 

 

春草 菱田春草 明治7(1874)― 明治44(1911)

長野県飯田町(現飯田市)に旧飯田藩士菱田鉛治の三男として生まれる。本名三男治。明治22年に上京、翌年東京美術学校入学。早くから頭角を現し、28年の卒業制作《寡婦と孤児》は評価が二分する問題作であったが、伝統的な技法の根源に学び、独創的な個性を発揮せよ、という天心の理念にかない、最優等となった。その後、しばらく帝室博物館委嘱の古典模写事業にも従事。母校の絵画科で教鞭をとるが31年美術学校騒動に際し、天心に殉じて辞職、日本美術院の創立に参加する。朦朧体をはじめとする大胆な画法による実験を試みつつ、個性的な様式を創造するために、雪舟などの室町水墨画や琳派などの在来の日本画、また西洋近代絵画の長所を自由に取り入れた。36年に天心の勧めでインド漫遊、翌37年から38年にかけての欧米旅行後、色彩の重要さを再確認し、画面は装飾的要素を取り入れつつ真に精神的な深みを獲得した。 41年に眼疾を発病するが、初期文展において《落葉》《黒き猫》(ともに重文)など後世に大きく影響を与える名作を発表。44年8月に失明、翌9月に自宅で逝去。享年37歳。豊かな才能と知的な理論で日本画革新に果たした功績は大きく、夭逝が惜しまれた。

 

 

2013年 秋季展

「月明」
明治35年頃 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 114.0cm×50.0cm
月明

 

 

「砧」
明治31年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 112.7cm×56.4cm
砧

 

 

2013年 夏季展

「漁舟」(六曲一双屛風)
大正3年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 190cm×353cm
「漁舟」(六曲一双屛風)
「漁舟」(六曲一双屛風)

 

「蘆雁」(二曲一双屛風)
明治35年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 157cm×178.5cm
「蘆雁」(二曲一双屛風)右隻
「蘆雁」(二曲一双屛風)左隻

 

 

2013年 春季展

「柳下舟行」 「帰帆」
明治40年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 124.0cm×49.5cm
明治34年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 107.7cm×48.8cm
「柳下舟行」 「帰帆」

 

今回は大観・春草が共通して多数描いている帆船図を取り上げました。

もちろんながらその主題は、洋帆船ではなく和帆船です。

というよりも、むしろ帆かけ船です。

洋画の帆船図は、高いマストに帆をいっぱい張った大型帆船が、荒海を勇ましく帆走している、そんな図柄が大部分です。

対して、大観・春草の帆船図はご覧の通りです。

私の知る限りでは、荒海を勇ましく帆走する大型帆船図は、ただの一点も描いていません。

この大きな違いは、日本人と西洋人の「自然観」の根本的違いによると私は考えています。

西洋人の自然観は「自然は征服して利用するべきもの」すなわち人間を特別視して、人と自然を対立させて考えるものです。

対して、日本人の自然観は「自然は神であり敬愛すべきもの」すなわち人間を自然の一部一員であるとして、人と自然を融合させて考えるものです。

一体どちらが「自然」なのか、どちらが「真実」なのか、実は当WEB美術館が広く世に問いたいのは、ただただこの一点こそなのです。

 

 

2012年 冬季展

「浪高し」
明治35年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 113.4cm×49.1cm
浪高し

画面中央で浪しぶきに煙るのは、太陽でしょうか、はたまた月でしょうか。

画面全体の風趣から、月と思いたい私です。

それにしては海面や空が明る過ぎるようにも思いますが、中秋の名月の月の出ごろなのかも知れません。

台風でも接近中なのでしょうか、天気晴朗なれど浪高しです。

強風に抗って懸命に飛ぶ千鳥の一群が、緊張感みなぎる画面全体にほっと一息つける優しさを演出しています。

雄大さと繊細さを併せ持った、人間大観の面目躍如たる名品だと思います。

 

 

「鴫立澤」
明治34年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 108.0cm×50.0cm
鴫立澤

本作品のモチーフは、言うまでもなく、かの西行の有名なこの歌でしょう。

「心なき身にも哀れは知られけり鴫立つ澤の秋の夕暮れ」

歌意は「僧侶となって浮き世のしがらみや人間らしい感情を捨てた積もりのわが身にも、モノの哀れはしみじみと感じられるものだなあ。鴫立つ沢の秋の夕暮れは、何と物寂しくまた何と趣深いものなんだろう」と言ったところでしょうか。

本作品は恐らく、この歌に強く感応した春草の心に浮かんだ心象風景なのでしょう。

ただ一羽飛び立つ鴫には、都を後に独り道奥へと旅立つ西行のイメージを重ねているのでしょうか。

それとも、世間の無理解の中で孤軍奮闘する孤高のアーティストたる春草自身の姿なのでしょうか。

いずれにしても、この評論を書きながら、身につまされて仕方がない私播磨屋助次郎ではあります。

 

 

2012年 秋季展

「蜻蛉」
明治34年頃 横山大観作
播磨屋本店蔵
「蜻蛉」

 

「鳩」
明治34年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
「鳩」

今回は、大観・春草の珍しい扇面対幅作品を紹介します。

当美術館は、その館名に因んで、大観・春草の双幅や対幅を相当数所蔵していますが、扇面作品はこの一点のみです。

しかし扇面は、その大きさと形が限定されている故に、画面構成に大きな工夫が必要となります。

明治34年と言えば、大観34歳、春草28歳と、両画伯ともまだまだ少壮気鋭の年齢です。

そして二人が、良い意味での宿命のライバルとして、互いにその力量を競い合い始めた時期でもあります。

この作品にも、そんな二人のライバル意識を垣間見ることが出来ます。

巷間よく「動の大観・静の春草」と言われますが、二人のそんな性格がよく現れているのです。

紫苑(しおん)でしょうか、まるで赤蜻蛉の群れを誘うようにその穂先を大きく右に傾けて、画面全体に動きと緊張感を演出している大観の作品。

それとはまるで対照的に、爛漫と咲いた満開の桜を扇面上部の広がりをうまく生かして描き、その下に仲良く静かにエサをついばむ鳩たちを配して、安定感と落ち着きを表現した春草の作品。

いろんな意味で非常に興味深い両作品です。

お楽しみください。

 

 

2012年 夏季展

「紅梅」 「紅梅」
明治38年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 103.0㎝×36.1㎝
明治42年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 98.5㎝×35.5㎝
「雪後」
「雨餘」

 

 お盆の先祖供養と終戦記念日の戦没者慰霊が重なるからでしょうか、この国の夏は不思議に鎮魂の季節となります。そういう意味から、多少こじつけっぽくなりますが、今年の夏季展は、大観作品・春草作品ともに、観音図を出品させて頂きました。

 観音は本来、男性でも女性でもないそうですが、この両作品は、明らかに女性をイメージして描かれています。

 優しさ、温かさ、清らかさ、そして何よりもその気品、それは純粋にして高潔なる両天才画家の全人格の投影に他なりません。またそれは、二人それぞれにとっての理想の女性像なのかも知れません。

 どうぞそんな観点で鑑賞してみてください。一層興味深いと思います。

 

 

2012年 春季展

「春雨秋雨」
明治10年頃 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 121.0cm×36.0cm
「春雨秋雨」

 「人生は人間同士の優劣競争の場」「幸せはその競争に勝って手に入れるもの」私たち人類のこんな哀しく愚かな単なる勘違いによって、真実かけがえのない地球環境が、年々歳々どんどん破壊されてゆきます。

 そして近年、きっとその影響によるのでしょうが、悠久なる自然の営みが明らかに狂い始めています。

 「自然の営みが日本ほど霊妙で美しい国はない」私播磨屋助次郎の独り密かな愛国の情念です。春夏秋冬それぞれに素晴らしいのですが、春秋の美しさ素晴らしさは、世界随一だと胸を張って断言出来ます。

 ところが近年、どうも様子がおかしいのです。日本の春秋の最大の特長「優しさ」が、すっかり影を潜めてしまったのです。

 かつては、静かにそぼ降る春雨と共に春は長け、同じく秋雨と共に秋は深まってゆくものでした。それが最近、冬から突然夏になり、夏から突然冬になるようで、明瞭な春と秋が実感できなくなってしまったのです。静かにそぼ降る春雨もなく秋雨もなく、雨と言えば少しも優しくない「ゲリラ豪雨」ばかりが目立つのです。

 本作品の鑑賞を通して、私播磨屋助次郎が長年唱え続ける「真実」の重要さに目覚めて頂けるなら幸甚です。

「桜花図」
明治42年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 29.7cm×69.8cm
「桜花図」

 今回は作品の解説を離れて、春草のひととなりの一端を紹介させて頂きます。

 春草はよく「不熟の天才」と呼ばれます。明治44年9月、わずか37歳で早世したからです。その早世を惜しんで記された惜別の辞『噫菱田春草君』の中で、師岡倉天心がこう述べています。

 「美術界に必要なのは、後からついてゆく大勢の人々よりも、自ら在来の格を打ち破って他を指導する僅少の人々である。昨今の画家中で真に新生命を開かんとする人々はたくさんはいない。菱田君の如きは、各時代に僅少なる、すなわち美術界に最も必要なる人物の要素を備えていた人である。かかる要素を備えている人は、未だ若い不熟の中から判るものである。菱田君の如きも、ほとんど美術学校二年生の時分からこの特質が見えていた。不熟の中からと言ったが、菱田君はある意味において、今日でも未だ不熟であったかも知れぬ。あるいは終生不熟なのだろう。故狩野芳崖の如きもそうだった。この常に不熟なところが真に有望なところである・・・」

 「常に不熟なる人間こそ真実有望なのである」人間誰しも、心中深く銘記すべき最重要の人生訓ではないでしょうか。春草以て瞑すべしです。

 

 

2011年 冬季展

「紅梅」 「紅梅」
明治36年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 84.0cm×34.0cm
明治36年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 84.0cm×34.0cm
「雪後」
「雨餘」

 

 今回は2009年夏季展に続いて、大観・春草の対幅を出品させて頂きます。対幅とは左右一対で一つの作品になっている掛け軸のことです。

 またしても季節感の話になりますが、冬季展が一番苦労します。当美術館の決して少なくはない所蔵作品群の中にも、明瞭に「冬」を主題にした作品はほんの数えるほどしかないからです。

 その内の一点が左幅の春草作『雪後』です。右幅の大観作『雨餘』は、残念ながら夏の絵ですがご容赦ください。

 本作品が発表された明治36年は、かの日露戦争勃発の前年で、国内外の情勢が文字通り風雲急を告げる、非常に緊迫した時代でした。

 司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』が活写した、日本人の民族エネルギーが急沸騰し始めた時代です。

 西洋何するものぞとの気概に燃えた師岡倉天心が発した「空気を描く工夫はないか」との設問に応えるべく、二人が懸命に創意工夫を続けていたころです。

 以下は、その辺りの機微を語った大観の言葉です。

 「私たちは、岡倉先生のご指導によって、絵画制作の上に一つの新しい工夫を試みようとしました。例えば空気とか光線とかの表現に、空刷毛(水も墨も絵の具も、何も付けていない乾いた刷毛)を使用したり、濡れた絵絹に描いてぼーっとぼけさせたりして、一つの味わいを出すことに成功しました。しかしこの新奇な試みは、当時の鑑賞界に容れられず、朦朧派(もうろうは)なる罵倒嘲笑を受けるようになったのですが、この攻撃は、特に私や菱田君の上に加えられたものでした」

 「坂の上の雲」を目指して日本画革新のために奮闘する二人の、そんな労苦を忍びつつご鑑賞頂ければ一層趣深いと思います。

 

 

2011年 秋季展

「虎渓三笑」
明治45年頃 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 132.0cm×56.0cm (双幅)
「虎渓三笑」

 「虎渓三笑」は、古代中国の故事をモチーフにした日本画の有名な画題です。

 仏教の高僧慧遠(右手の人物)は、世俗を嫌って廬山の東林寺に引きこもって、三十年以上も山を下りたことがなかった。ある日、儒教の高士陶淵明(中央の人物)と道教の高士陸修静(左手の人物)の両人が訪ねて来て、久しぶりの清談に大いに花を咲かせた。

 両人が帰る際、慧遠は、俗界との境界の虎渓橋までという約束で見送りに出たが、尽きることのない清談についつい夢中になって、その虎渓橋を行き過ぎてしまった。虎の鳴き声でそれに気付いた三人は、互いに手を叩いて大いに笑い合った。

 そんな光景です。三人の服装や仕草に、そして特にその表情に、仏教・儒教・道教それぞれの道の巨人たちの心魂の大きさ・広さ・深さが、見事に描き出されています。

 世に数多くある「虎渓三笑図」の中でも、一二を争う名品ではないかと密かに自負しています。絵の謂われを連想しながら、どうぞじっくりとご鑑賞ください。

「美人読書図」
明治32年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 109.3cm×50.1cm
「美人読書図」

 明治32年作と言えば、春草25歳、東京美術学校を卒業してまだ4年目の比較的初期の作品です。

 天心の指導の下、盟友大観と共に、日本画の革新をテーマにいろいろと試行錯誤を重ねていたころです。

 硬骨漢春草は、それまでの日本画の伝統にはなかった「超細密描写」にチャレンジしてみたのではないでしょうか。しかし、これは私の推測ですが、師岡倉天心に否定的評価を受けたのではないでしょうか。

 というのは、ずっと後年、速水御舟(はやみぎょしゅう)が、これとよく似た着物の細密描写絵『京の舞妓』を発表するのですが、当時既に日本画壇の重鎮だった大観が、心象を重視する日本画の本筋ではないと酷評しているからです。

 いずれにしても、天才日本画家春草の新境地開拓に懸ける並々ならぬ執念の一端が垣間見える、非常に珍しいまた興味深い作品です。

 

 

2011年 夏季展

「鍾馗図」
大正2年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 133.0cm×56.5cm
「鍾馗図」

 「鍾馗」は中国の民間伝承に出てくる邪気を払う神です。日本では、端午の節句に、やはり魔除けの意味でその神像を飾る風習があります。

 旧暦の端午の節句は、新暦の6月中ごろに当たり、本格的な夏が始まる季節です。夏は各種の病原菌の働きが活発になるので、昔は伝染病が流行しやすい恐ろしい季節だったのです。

 だからその魔除けのために鍾馗の神像を飾り、毒消しの効能があると言われる菖蒲や蓬(よもぎ)を供えたのでしょう。

 どうでしょうか、この大観の鍾馗さん。ものすごく怖そうですが、決しておぞましくはなく、よくよく見るとその精神の清らかさが感じ取れて、思わず親しみを覚えるほどです。

 高潔なる精神性を何よりも大切にした大観の面目躍如たる、真に理想的なコワモテ鍾馗さんです。

 当WEB美術館所蔵の百点近い大観作品の中でも、五指に入るほど大好きな作品です。

「夕陽静波」
明治39年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 119.0cm×51.0cm
「夕陽静波」

 古来、日本人が何よりも大切にしてきた情趣の一つに「季節感」があります。年四回の春夏秋冬展を定期開催する当WEB美術館もまた然りで、出来るだけ季節感のはっきりした作品を選定して紹介するように心がけています。

 しかし中には、私自身が「この絵の季節はいつだろう」と判断に迷う作品も少なからずあります。

 この作品もその一つです。しかし私の独断と偏見で、夏の絵だと判定して今回の夏季展に出品させて頂いたものです。

 「ぴたりと風が止んだ夏の夕凪の海上を、浜千鳥の一群がねぐらへと帰ってゆく」そんな情景ではなかろうかと感じたのです。あなたは、どうお感じになりますか。

 

 

2011年 春季展

「竹林一枝」
昭和25年頃 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 53.0cm×66.5cm
「竹林一枝」

 本作品は、中国北宋の詩人として有名な蘇東坡(そとうば)・本名蘇軾(そしょく)の詩「江東千樹春欲闇 竹林一枝斜更好」をモチーフにしたものです。

 蘇東坡の天真爛漫さや、出世にこだわらない清廉な人柄を深く尊敬していた大観は、同名の作品を10点近く描いています。文字通りの自画自賛で恐縮ですが、私はそれらの中で本作品が一番の秀作ではないかと自負しています。

「曙」
明治37年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 50.0cm×73.0cm
「曙」

 本作品は、明治37年にニューヨークで描かれたものです。そしてその43番街のセンチュリーアソシエーションクラブで開催された「大観・春草日本美術院展」に出品され、アメリカ人に買い取られたものです。英語の題名は「Dawn」でした。

 そのいきさつを簡単に紹介します。日露戦争が始まったのは、明治37年2月10日ですが、同日大観と春草も師岡倉天心に随行して、伊予丸でアメリカへ旅立ちました。

 文化親善使節としてアメリカ世論を親日化せよと、時の首相伊藤博文から特命を受けてです。

 そして、英語に堪能だった天心の論説と大観と春草の天才的画才は、見事にその大任を果たし、アメリカ大統領ルーズベルトをして、日露戦争終結の調停役を買って出させたのでした。

 そんな歴史的背景を想像しながらご鑑賞ください。一層味わい深いと思います。

 

 

2010年 冬季展

「連峰雲」
昭和18年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 34.5cm×42.0cm
「連峰雲」

 勅題(ちょくだい)という言葉をご存じでしょうか。天皇が出した詩歌の題(テーマ)のことですが、近代になってからは(明治2年以降)、特に毎年行われる歌会始めの題のことを指します。

 本作品は、昭和17年の勅題「連峰雲」に因んで描かれたものです。前年12月に大東亜戦争を開始したばかりであり、しかも勅題ということで、国粋主義的熱血漢だった大観の緊張感や熱情のほどが、鑑賞する者の心にビリビリと伝わってくるような、実に大観らしいすばらしい作品です。

 雲海に浮かぶ手前の山波は、たぶん丹沢の峰々でしょう。その向こうに神州日本の象徴である富士、そしてその輝かしい未来を暗示させるかのように描かれた旭日、売り込みに来た画商が箱から出した瞬間に、価格も聞かずに思わず「買った!」と叫んでしまった、非常に思い出深い全く私好みの名品です。

「寒汀群鴨」
明治42年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 50.0cm×70.6cm
「寒汀群鴨」

 枯葦もろともにすっかり凍りついた川辺でしょうか、それとも湖岸でしょうか、風はないようです。空気まで凍りついたような静寂の中に、羽毛を立てて寒さを防ぎながら、あちらに五羽、こちらに二羽三羽、それぞれに特徴的な羽根模様の鴨たちが、草の実を探したり片足立ちをして休んでいます。

 春草には、鳥をモチーフにした作品が少なからずあります。本作品は鴨を描いた名品のひとつですが、一番有名なのは最晩年の明治43年(満36歳)に描いた六曲一双の屏風絵「雀に鴉」です。それを、明治天皇が買い上げて自室に飾り、終生鑑賞され続けたそうです。

 春草の名は、盟友だった大観に比べて余りポピュラーではありませんが、それは彼が余りにも早く(満37歳)没したからであり、彼の名声と力量は、その存命中からそれほど大きくまた高いものであったのです。

 

 

2010年 秋季展

「秋之水」
昭和22年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 48.0cm×57.0cm
「秋之水」

 どこか山あいの湖の入り江の辺でしょうか。題名は「秋之水」ですが、季節は秋というよりも、むしろ初冬といった方が適切かも知れません。

 水は青く深く澄みわたり、もうかなり冷たそうです。氷雨まじりの木枯しが、赤く見事に紅葉した楓の葉を、情容赦なく吹き散らしてゆきます。

 しかし、大観ももう老境に入った戦後の絵です。画面全体に漂う厳しい寂寥感(せきりょうかん)の奥に、大観らしい優しく温かい自然愛が感じ取れ、なぜか心なごませられる素晴らしい作品です。

「月夜遊雁之図」
明治35年頃 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 104.5cm×41.2cm
「月夜遊雁之図」

 どうですか。この絵を前にして美しいと感じない日本人は、ただの一人もいないと思います。妙な解説など、かえってじゃまになるぐらいでしょう。

 ただし、一言だけ申し上げておきます。これは、今から百年以上もの昔に描かれた絵なのです。

 第一級の美術品の重要な要件の一つに「時代や古さを感じさせない」があります。そのためには、作者の心が「自然」でなければなりません。自然な心(清く明るく素直な心)が制作した作品は、当然ながら「自然」です。すなわち完璧にバランスがよいのです。古さ(バランスの悪さ)を感じさせないのです。

 そんなバランスの取れた美しい春草の心に、あなたの心を重ねながら鑑賞してみてください。それこそ自然ながらに、あなたの心もバランスよく美しく浄化されてくるはずですから。

 

 

2010年 夏季展

「夏の夕」
明治34年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 122.5cm×35.0cm
「夏の夕」

 大観の故郷茨城県の霞ヶ浦でしょうか。それとも瀬戸の海なのでしょうか。舟上の人影は、どうも二人ずつのようです。夫婦舟でしょうか。積荷は何なんでしょう。

 もくもくと空高く盛り上がった入道雲の頭が崩れ、夕立ちが来たようです。大粒の雨が、夏の夕凪で静かだった水面を激しくたたきながら近付いてきます。風も出てきました。穏やかだった舟足が一気に速まりそうです。舵を持つ手に思わず力が入る夫。前方を見据えて身構える妻。

 大自然の中で、その息吹きに自らの呼吸を合わせながら、自然と共に自然に生きた古の日本人。騒々しいエンジン音が聞こえてこない、静かさと安らぎ。環境問題などかけらもなかった、古き良き本当の日本がそこにあります。どうぞ静穏な心でご鑑賞ください。

「夏山雨後」
明治42年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 118.5cm×50.3cm
「夏山雨後」

 春草の故郷は長野県飯田市です。これは多分そんな故郷飯田の山々なのでしょう。飯田市は中央道で何度か通過したことがあるのですが、この絵の通り広々と開けた視界遠くに、超2千メートル級の中央アルプスの山々がはるかに連なる、まことに風光明媚なところです。

 純粋すぎるほど純粋な春草の芸術家魂や、自然の本質を的確にとらえる鋭敏な感受性は、こんな信州特有の美しく大らかな風土から醸成されたものなのかも知れません。

 近景は恐らく木曽桧の自然林でしょうが、大中小取り混ぜた木々の配置の妙といい、流れや石組みの完璧な自然さといい、まるで天才庭師が作った超一流の日本庭園を見るようです。美しい日本庭園に目がない私は、ついついそんなことを考えてしまいます。皆様はどう思われますでしょうか。

 

2010年 春季展

「児島高徳」 「児島高徳」
明治34年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 109.9cm×41.7cm
明治34年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 114.9㎝×35.6㎝
「児島高徳」
「児島高徳」

 今回は大変珍しい、また資料的に非常に貴重な、全く同題名の二人の作品をご紹介します。

 児島高徳(こじまたかのり)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の備前国の武将です。「太平記」によれば、後醍醐天皇の隠岐配流の際、天皇を救い出そうとして果たせず、美作院ノ庄(岡山県津山市)の行在所近くの山桜の幹を刀で削って、そこに「天莫空勾践 時非無范蠡」という十字漢詩を墨書して、天皇を慰めたとされています。

 この漢詩の訓読は「天、勾践を空しうすることなし 時に范蠡の無きにしも非ず」で、天は古代中国の越王の勾践(こうせん)にしたように、きっと范蠡(はんれい)のような大忠臣を遣わせて、必ずや帝をお助けするでありましょうというような意味です。

 さて両作品共に明治34年の作ですが、記録によれば丁度この年の春、大観と春草は連れ立って関西方面にスケッチ旅行に出かけています。その折おそらく岡山県へも足を延ばし、院ノ庄辺りの宿屋で本作品の構想を練り合ったのではないでしょうか。

 私の知る限り、同名タイトルの絵は、大観・春草共にこれら2作品のみです。二人のほほえましい交友や共通した美意識のほどが忍ばれる、大変貴重な作品だと思います。

 

2009年 冬季展

「日之出」
大正2年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 121.5cm×41.2cm
「秋瀑」

 大観は太陽をモチーフにした絵を多数描いています。

 非常な愛国者だった大観にとって、祖国日本は文字通り「日出づる国・太陽の国」だという思いが強く、それが「富士に太陽」や「日の出」を多作する原動力となったものでしょう。

 本作品は、そんな多くの日の出図の中でも、大観が最も好んだ雲海から昇る朝日です。

 写生を重視した大観のことですから、おそらく空想ではなく、富士山か立山から実際に見た風景だと思われます。

 弊社の大観コレクションにも太陽をモチーフにした大観作品が何点かありますが、その中でも私が一番好きなのが本作です。

「日之出」
明治42年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 119cm×44cm
「中秋」

 大観とは対照的に、春草は富士や太陽といった「日本」を強くイメ―ジするような作品をほとんど描いていません。

 信州の小藩飯田藩出身の春草には、国粋色の強い大藩水戸藩出身の大観に対する、多少の抵抗感のようなものがあったのかも知れません。

 本作品は、そんな春草には珍しい、いかにも日本の初日の出という感じの絵です。

 おそらく東京からほど近い、茨城県あたりの海岸砂丘越しに見た朝日なのでしょう。

 散在する若松の群生が、日本を、また初日の出を連想させ、正月の床飾りにぴったりの一幅です。

 

 

2009年 秋季展

「秋瀑」
明治45年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 134cm×49cm
「秋瀑」

 西洋では庭に噴水を作り、日本では滝を作ります。

 その理由は、西洋人は万事に「不自然」を好み、日本人は「自然」を尊ぶからです。

 しかし噴水と滝、ながめていて心安まるのは一体どちらでしょうか。

 言うまでもなく滝でしょう。

 大観もそんな滝が大好きだったようで、滝の絵をたくさん描いています。

 本作品もその一つで、紅葉の名所として有名な大阪の箕面滝です。

 どうですか。この絵をながめているだけで、心静まる不思議な心地がしてきませんか。

「中秋」
明治43年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 108cm×40cm
「中秋」

 中秋とは旧暦八月十五日のことで、新暦では九月二十日ごろになります。

 秋の彼岸のころです。

 古来、暑さ寒さも彼岸までと言われる通り、このころからがいよいよ秋本番を迎えます。

 紫苑(しおん)にもず、例によって春草独特の一分の隙もない緊張感溢れる構図から、秋の清澄さや静かさがものの見事に表現し尽くされています。

 

 

2009年 夏季展

「紅梅」 「紅梅」
明治34年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 117cm×41cm
明治34年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 117cm×41cm
「紅梅」
「紅梅」

 

 今回紹介するのは、大観作品と春草作品の双幅です。双幅とは対幅とも言われ、二つで対(つい)になっている掛け軸のことです。

 大観は明治元年、春草は明治7年の生まれで、西洋の文物が洪水のように押し寄せた時代に、師岡倉天心(今日の東京芸大の前身である東京美術学校の初代校長で、近代日本美術の振興と世界への普及に尽くした明治日本美術界の巨人)の指導のもとに共に一致協力して、近代日本画の画法や社会的地位の確立に尽力しました。

 二人が最も意を尽くしたのは、江戸期に大きく停滞してしまっていた日本画の革新で、特に天心の「空気を画く方法はないか」というテーマに、日夜寝食を忘れて全身全霊で取り組みました。

 そして確立したのが、当時「朦朧(もうろう)体」と言われて社会的にほとんど評価されることがなかった没骨法(もっこつほうと読み、線に頼らず色彩のみで描く画法のこと)でした。

 本作品もその没骨法で描かれています。そしてどちらもが、天心の「空気を描く方法はないか」の問いかけに明確に応え得ています。

 大観は夏の早朝の清涼な空気感を、春草は梅雨季特有の霧雨を含んだしっとりとした空気感を、線を一切使わず淡い色彩だけでものの見事に表現し得ています。

 こんな時代背景を連想しながら、どうぞじっくりとご鑑賞ください。

 

 

2009年 春季展

「紅梅」
大正3年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 122.1cm×49.1cm
「紅梅」

 日本の国花は、言うまでもなくサクラです。当然ながらサクラは日本の固有種です。そしてそのサクラに何かと対比されるのが、この絵に描かれたウメですが、意外や意外、ウメは日本の固有種ではなく、中国からの渡来種なのです。

 しかし、私たち日本人の感性に余程ベストマッチだったのでしょう、渡来して間もないころに編纂された、かの万葉集4500余首の中に、ウメを詠み込んだ歌が119首も収録されているのです。因みに一番多いのはハギの142首、二番目がウメで、サクラはたったの46首です。

 私播磨屋助次郎もウメは大好きで、朝来山荘の中庭は紅白折り混ぜた14~5本の梅林にしています。

 大観は出身が水戸藩(水戸の偕楽園は日本一の梅林として有名)だったからか、ウメをこよなく愛し、ウメの絵を数多く描き残しています。本作品には、そんなウメに寄せる大観の熱い思いが、見事に表現されつくされています。ウメ特有の気品ある旺盛な生命力を感じ取って頂ければ幸いです。

 

 

「雛之図」
明治36年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 120.4cm×49.2cm
「雛之図」

 日本の伝統的な美意識には、大きく三つの要素があります。「清らかさ」「明かるさ」「素直さ」の三つです。

 そしてあらゆる文物、とくに美術品については、それを鑑賞する者の心を清らかに明かるく素直に出来る作品こそが、一級の美術品であるとされてきたのです。

 どうでしょうか。この春草作品にも、濁った心・暗い心・ひねくれた心など微塵もないでしょう。

 ヨコシマなもの・ケガレたことの余りに多い今の世に、当WEB美術館の作品群が、あなたの心の清涼剤に、そしてまた心のお守りになれればこんなに嬉しいことはありません。

 

 

2008年 冬季展

「霊峰不二」
大正14年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 32.0cm×82.8cm
「霊峰不二」

 大観と言えば富士、富士と言えば大観、よくこう言われます。大観は生涯に、1100点余もの富士の絵を描き残しているからでしょう。

 それほどまでに、大観を引き付けて止まなかった富士の魅力とは一体何だったのか。大観自身の富士観をご紹介して、本作品の解説にかえます。

「富士の名画と言われるものは、昔からあまりない。それは形ばかり写すからだ。富士の形だけなら子供でも描ける。
そうではなくて本当は、富士に映る自分の心を描かねばならないのだ。心とは、すなわち人格のことにほかならない。それはまた、気品であり気迫でもある。
富士を描くということは、己自身を描くことと同じなのだ。己が貧しければ、描かれた富士もまた貧しい。
心に大いなる理想を持っていなければ、富士の真姿は決して描けないということだ」

 

 

「三保」
明治43年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 116.7cm×50.3cm
「三保」

 動と静、陽と陰、情と理、大観と春草の個性は全く対照的でした。

 富士を好んで描いた盟友大観とは対照的に、春草には富士を描いた作品がほとんどありません。強烈な思い入れをもって富士を描き続ける大観に、春草はよい意味で遠慮したのかも知れません。

 本作品は、そんな春草の数少ない富士の絵です。しかし題名からも分かるとおり、富士は主人公であって主人公ではありません。春草が描きたかったのは、富士そのものへの憧憬ではなく、富士のある日本固有の美しい天然全体ではなかったかと思われます。

 それにしても、この構図の巧みさはどうでしょうか。百年以上も昔の絵とはとても思えません。理知の人菱田春草の面目躍如たる名品です。

 

 

2008年 秋季展

「海濱之月」
明治42年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 49.5cm×124.5cm
「海濱之月」

 

 大観と春草は、あの日露戦争と全く軌を一にして、アメリカからヨーロッパへ絵画研究の大旅行をしています。開戦とほぼ同時の明治37年2月に横浜港からアメリカへ旅立ち、翌38年4月までニューヨーク・ボストンに滞在し、その後ヨ―ロッパに渡って、イギリス・ドイツ・フランス・イタリアを回り、終戦とほぼ同時の明治38年8月に帰国しているのです。

 日露戦争の勝利が日本人を慢心させ傲慢にして、昭和20年8月の亡国間一髪へとつながっていくのですが、二人の天才芸術家は違いました。欧米美術採るに足らずと、日本美術の圧倒的優位性を確信したところまでは同じなのですが、西洋画との優劣競争や世間の評判などには目もくれずに、自らの美意識の研ぎ澄ましだけに鋭意専心し続けたのです。

 時に大観38歳、春草33歳で、明治44年に春草が37歳で夭逝するまでの数年間が、春草にとってはもちろんのこと、89歳まで長命した大観にとっても、純粋な意味での芸術的至高点ではなかったのか、私播磨屋助次郎にはそう思えて仕方がないのです。

 そんな時代の、そんな二人の、月をテーマにした二作品を取り上げました。

 感じ取って頂きたいのは、そのピュアな精神性です。絵画が写真やイラストと根本的に異なるのは、作者の精神性が色濃く反映されているという点にあります。従って絵画鑑賞の要諦は、画家の心に自身の心を重ね合わせることこそにあるのです。

 ピュアな心で描かれた絵画は、鑑賞する者の心をもまたピュアに浄化してくれるのです。「大観・春草」が心の清涼剤と言われるゆえんです。どうですか。すばらしい絵でしょう。皓々たる月光を浴びて、身も心も清められる、そんな気がしてはきませんか。

 

「武蔵野之月」
明治42年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 40cm×104cm
「武蔵野之月」

 

 「神」とは──大自然は、絶えず新陳代謝をくり返しながら、より一層完璧なる完全調和を目指して、永遠に進化し続ける一大生命体である。大自然をそう存らしめている、自然の流れとでも言うべきある種のエネルギー作用、それを「神」と呼ぶのである。

 今から丁度20年前、弱冠39歳の私が生まれて初めて上梓した『神々の革命』の巻頭の一文です。そしてその文意を具象化して、より分かりやすくするために添えたのが、春草のこの絵でした。

 どうでしょうか。当時の大観・春草と同年代だった私播磨屋助次郎の、純粋な熱情を感じ取って頂けますでしょうか。私の言う「神」が、この絵の中に観えますでしょうか。

 ああ・・・何となく分かる気がする。それで十分です。その瞬間にあなたの心は、春草の心と、また私播磨屋助次郎の心と、すなわち「神」なる大自然の心と重なり合って、ピュアに浄化されているのですから。

 

 

2008年 夏季展

「雨餘」
昭和13年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 63.6cm×86.4 cm
「雨餘」
 大観は、昭和33年2月に89歳の天寿を全うする直前まで、燃えるような創作エネルギーを少しも失うことなく鋭意絵筆を取り続けました。

 また日本文化に対する不動の誇りを胸奥に秘めつつ、西洋画の手法さえも学ぶべき長所は学び、生命の続く限り日本画の神髄を追求し続けたのです。

 それは、無念にも夭逝せざるを得なかった盟友菱田春草の分までもという、大観特有の男気の発露だったのかも知れません。私播磨屋助次郎には、そう思えて仕方がないのです。

 そんな広く且つ深い大観芸術のジャンルの一つに、水墨画があります。いえ、大観が終生最も力を入れて描き続けたのが水墨画でした。

 物象をただ単に物象とだけ見ず、その奥にある心象の現われとして観る、東洋的とりわけ日本的世界観の表現手法として、水墨画に勝るものはないと早くから気付いていたのです。

 雨餘とは雨上がりのことです。梅雨の雨上がり、京都東山山麓辺りの情景でしょうか。何か「自然の生命の大いなる躍動」のようなものが観えてきませんか。大観が真に表現したかったのは、その「躍動」に相違ないと私は思います。

 

「帰舟」
明治37年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 50.6cm×85.5 cm
「帰舟」

 大観は動的男性的な情熱の人、春草は静的女性的な理知の人、私播磨屋助次郎は二人を大きくそのようにとらえています。

 生来の性格に加えて、生まれ育った土地柄(水戸藩と信州飯田藩)が少なからぬ影響を与えたものと考えられます。

 この作品にも、そんな春草の理知的な人柄がはっきりと見て取れます。

 信州の千曲川でしょうか、それとも東京近郊の利根川なのでしょうか、ゆったりとした流れに乗って、三隻の川舟が波音ひとつ立てることなくゆっくりと押し進められてゆきます。

 記録によると積荷は麦わらだそうですが、戦後生まれの私には知るよしもない、明治日本ののどかな初夏の田園風景です。

 百年以上も昔の絵とはとても思えないような、ある意味現代的とも言える計算されつくした構図の妙は、まさ
しく春草の面目躍如たるところで、当美術館所蔵の多くの春草作品の中でも一推しの名品だと思います。