日本一おかき処 播磨屋本店社主 播磨屋助次郎
播磨屋助次郎のWEB美術館 「大観・春草コレクション」

 若い日、岡倉天心の「茶の本」に、衝撃的とも言える深く強い感銘を受けました。更にその縁続きで、横山大観・菱田春草の大いなる芸術に触れ、完全に魂を奪われてしまいました。そして身分不相応は百も承知の上で、近代日本画壇を代表する両巨匠の作品を、万難を排して一点また一点と買い求めていったのでした。

 私播磨屋助次郎の人生は、天心と大観・春草が導いてくれたと言っても過言ではなく、心から感謝せずにはいられません。穏やかで豊かな真に人間らしい人生を生きる上で、何より一番大切な「心の自然」を、開眼させてくれたからです。

 当WEB美術館は、そんな播磨屋本店の大観・春草コレクションの中からそれぞれ一点ずつを、年4回の春夏秋冬展として展示紹介してゆくものです。作品の解説は、私播磨屋助次郎が担当させて頂きます。ご来館者各位の「心の自然」を、ほんの少しでも呼び覚まし得るなら望外の幸せです。

2010年 夏季展

「夏の夕」
明治34年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 122.5cm×35.0cm
「夏の夕」

 大観の故郷茨城県の霞ヶ浦でしょうか。それとも瀬戸の海なのでしょうか。舟上の人影は、どうも二人ずつのようです。夫婦舟でしょうか。積荷は何なんでしょう。

 もくもくと空高く盛り上がった入道雲の頭が崩れ、夕立ちが来たようです。大粒の雨が、夏の夕凪で静かだった水面を激しくたたきながら近付いてきます。風も出てきました。穏やかだった舟足が一気に速まりそうです。舵を持つ手に思わず力が入る夫。前方を見据えて身構える妻。

 大自然の中で、その息吹きに自らの呼吸を合わせながら、自然と共に自然に生きた古の日本人。騒々しいエンジン音が聞こえてこない、静かさと安らぎ。環境問題などかけらもなかった、古き良き本当の日本がそこにあります。どうぞ静穏な心でご鑑賞ください。

横山大観 横山大観 明治元(1868)― 昭和33(1958)

水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸市に生まれる。幼名秀蔵、のち秀松、長じて母方の横山性を継ぎ秀麿と改める。明治11年に一家で上京、22年、岡倉天心を学長として新設された東京美術学校に、第一期生として入学、在学中からその天分を認められる。26年の卒業制作《村童観猿翁》は、最高点をとった。その後下村観山、菱田春草らと母校で図案科助教授として教鞭をとるが、31年の美術学校騒動で春草らと共に連袂辞職、これを契機とした天心の日本美術院に参加、新日本画創造のため種々の試みを行う。特に色彩を主とする没骨描法は朦朧体と呼ばれ在来画法を支持する旧派から批判されたが、一歩もひくことなく次々に新しい表現様式への脱皮に心を砕いた。大正3年日本美術院を再興し、その中心的存在として天心理想の実践につとめた。さらに水墨画に新しい開拓を試み、東洋画的境地を追求していく。それは写実主義に対する、象徴的精神主義といえる立場であった。昭和期に入って急に数を増す「富士山」の連作は、大観にとって日本の象徴であり、師岡倉天心であり、自らの心の反映であった。昭和12年第一回文化勲章受章。昭和33年2月没。享年89歳。

「夏山雨後」
明治42年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 118.5cm×50.3cm
「夏山雨後」

 春草の故郷は長野県飯田市です。これは多分そんな故郷飯田の山々なのでしょう。飯田市は中央道で何度か通過したことがあるのですが、この絵の通り広々と開けた視界遠くに、超2千メートル級の中央アルプスの山々がはるかに連なる、まことに風光明媚なところです。

 純粋すぎるほど純粋な春草の芸術家魂や、自然の本質を的確にとらえる鋭敏な感受性は、こんな信州特有の美しく大らかな風土から醸成されたものなのかも知れません。

 近景は恐らく木曽桧の自然林でしょうが、大中小取り混ぜた木々の配置の妙といい、流れや石組みの完璧な自然さといい、まるで天才庭師が作った超一流の日本庭園を見るようです。美しい日本庭園に目がない私は、ついついそんなことを考えてしまいます。皆様はどう思われますでしょうか。

春草 菱田春草 明治7(1874)― 明治44(1911)

長野県飯田町(現飯田市)に旧飯田藩士菱田鉛治の三男として生まれる。本名三男治。明治22年に上京、翌年東京美術学校入学。早くから頭角を現し、28年の卒業制作《寡婦と孤児》は評価が二分する問題作であったが、伝統的な技法の根源に学び、独創的な個性を発揮せよ、という天心の理念にかない、最優等となった。その後、しばらく帝室博物館委嘱の古典模写事業にも従事。母校の絵画科で教鞭をとるが31年美術学校騒動に際し、天心に殉じて辞職、日本美術院の創立に参加する。朦朧体をはじめとする大胆な画法による実験を試みつつ、個性的な様式を創造するために、雪舟などの室町水墨画や琳派などの在来の日本画、また西洋近代絵画の長所を自由に取り入れた。36年に天心の勧めでインド漫遊、翌37年から38年にかけての欧米旅行後、色彩の重要さを再確認し、画面は装飾的要素を取り入れつつ真に精神的な深みを獲得した。 41年に眼疾を発病するが、初期文展において《落葉》《黒き猫》(ともに重文)など後世に大きく影響を与える名作を発表。44年8月に失明、翌9月に自宅で逝去。享年37歳。豊かな才能と知的な理論で日本画革新に果たした功績は大きく、夭逝が惜しまれた。

 

2010年 春季展

「児島高徳」 「児島高徳」
明治34年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 109.9cm×41.7cm
明治34年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 114.9㎝×35.6㎝
「児島高徳」
「児島高徳」

 今回は大変珍しい、また資料的に非常に貴重な、全く同題名の二人の作品をご紹介します。

 児島高徳(こじまたかのり)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の備前国の武将です。「太平記」によれば、後醍醐天皇の隠岐配流の際、天皇を救い出そうとして果たせず、美作院ノ庄(岡山県津山市)の行在所近くの山桜の幹を刀で削って、そこに「天莫空勾践 時非無范蠡」という十字漢詩を墨書して、天皇を慰めたとされています。

 この漢詩の訓読は「天、勾践を空しうすることなし 時に范蠡の無きにしも非ず」で、天は古代中国の越王の勾践(こうせん)にしたように、きっと范蠡(はんれい)のような大忠臣を遣わせて、必ずや帝をお助けするでありましょうというような意味です。

 さて両作品共に明治34年の作ですが、記録によれば丁度この年の春、大観と春草は連れ立って関西方面にスケッチ旅行に出かけています。その折おそらく岡山県へも足を延ばし、院ノ庄辺りの宿屋で本作品の構想を練り合ったのではないでしょうか。

 私の知る限り、同名タイトルの絵は、大観・春草共にこれら2作品のみです。二人のほほえましい交友や共通した美意識のほどが忍ばれる、大変貴重な作品だと思います。

 

2009年 冬季展

「日之出」
大正2年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 121.5cm×41.2cm
「秋瀑」

 大観は太陽をモチーフにした絵を多数描いています。

 非常な愛国者だった大観にとって、祖国日本は文字通り「日出づる国・太陽の国」だという思いが強く、それが「富士に太陽」や「日の出」を多作する原動力となったものでしょう。

 本作品は、そんな多くの日の出図の中でも、大観が最も好んだ雲海から昇る朝日です。

 写生を重視した大観のことですから、おそらく空想ではなく、富士山か立山から実際に見た風景だと思われます。

 弊社の大観コレクションにも太陽をモチーフにした大観作品が何点かありますが、その中でも私が一番好きなのが本作です。

「日之出」
明治42年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 119cm×44cm
「中秋」

 大観とは対照的に、春草は富士や太陽といった「日本」を強くイメ―ジするような作品をほとんど描いていません。

 信州の小藩飯田藩出身の春草には、国粋色の強い大藩水戸藩出身の大観に対する、多少の抵抗感のようなものがあったのかも知れません。

 本作品は、そんな春草には珍しい、いかにも日本の初日の出という感じの絵です。

 おそらく東京からほど近い、茨城県あたりの海岸砂丘越しに見た朝日なのでしょう。

 散在する若松の群生が、日本を、また初日の出を連想させ、正月の床飾りにぴったりの一幅です。

 

 

2009年 秋季展

「秋瀑」
明治45年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 134cm×49cm
「秋瀑」

 西洋では庭に噴水を作り、日本では滝を作ります。

 その理由は、西洋人は万事に「不自然」を好み、日本人は「自然」を尊ぶからです。

 しかし噴水と滝、ながめていて心安まるのは一体どちらでしょうか。

 言うまでもなく滝でしょう。

 大観もそんな滝が大好きだったようで、滝の絵をたくさん描いています。

 本作品もその一つで、紅葉の名所として有名な大阪の箕面滝です。

 どうですか。この絵をながめているだけで、心静まる不思議な心地がしてきませんか。

「中秋」
明治43年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 108cm×40cm
「中秋」

 中秋とは旧暦八月十五日のことで、新暦では九月二十日ごろになります。

 秋の彼岸のころです。

 古来、暑さ寒さも彼岸までと言われる通り、このころからがいよいよ秋本番を迎えます。

 紫苑(しおん)にもず、例によって春草独特の一分の隙もない緊張感溢れる構図から、秋の清澄さや静かさがものの見事に表現し尽くされています。

 

 

2009年 夏季展

「紅梅」 「紅梅」
明治34年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 117cm×41cm
明治34年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 117cm×41cm
「紅梅」
「紅梅」

 

 今回紹介するのは、大観作品と春草作品の双幅です。双幅とは対幅とも言われ、二つで対(つい)になっている掛け軸のことです。

 大観は明治元年、春草は明治7年の生まれで、西洋の文物が洪水のように押し寄せた時代に、師岡倉天心(今日の東京芸大の前身である東京美術学校の初代校長で、近代日本美術の振興と世界への普及に尽くした明治日本美術界の巨人)の指導のもとに共に一致協力して、近代日本画の画法や社会的地位の確立に尽力しました。

 二人が最も意を尽くしたのは、江戸期に大きく停滞してしまっていた日本画の革新で、特に天心の「空気を画く方法はないか」というテーマに、日夜寝食を忘れて全身全霊で取り組みました。

 そして確立したのが、当時「朦朧(もうろう)体」と言われて社会的にほとんど評価されることがなかった没骨法(もっこつほうと読み、線に頼らず色彩のみで描く画法のこと)でした。

 本作品もその没骨法で描かれています。そしてどちらもが、天心の「空気を描く方法はないか」の問いかけに明確に応え得ています。

 大観は夏の早朝の清涼な空気感を、春草は梅雨季特有の霧雨を含んだしっとりとした空気感を、線を一切使わず淡い色彩だけでものの見事に表現し得ています。

 こんな時代背景を連想しながら、どうぞじっくりとご鑑賞ください。

 

 

2009年 春季展

「紅梅」
大正3年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 122.1cm×49.1cm
「紅梅」

 日本の国花は、言うまでもなくサクラです。当然ながらサクラは日本の固有種です。そしてそのサクラに何かと対比されるのが、この絵に描かれたウメですが、意外や意外、ウメは日本の固有種ではなく、中国からの渡来種なのです。

 しかし、私たち日本人の感性に余程ベストマッチだったのでしょう、渡来して間もないころに編纂された、かの万葉集4500余首の中に、ウメを詠み込んだ歌が119首も収録されているのです。因みに一番多いのはハギの142首、二番目がウメで、サクラはたったの46首です。

 私播磨屋助次郎もウメは大好きで、朝来山荘の中庭は紅白折り混ぜた14~5本の梅林にしています。

 大観は出身が水戸藩(水戸の偕楽園は日本一の梅林として有名)だったからか、ウメをこよなく愛し、ウメの絵を数多く描き残しています。本作品には、そんなウメに寄せる大観の熱い思いが、見事に表現されつくされています。ウメ特有の気品ある旺盛な生命力を感じ取って頂ければ幸いです。

 

 

「雛之図」
明治36年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 120.4cm×49.2cm
「雛之図」

 日本の伝統的な美意識には、大きく三つの要素があります。「清らかさ」「明かるさ」「素直さ」の三つです。

 そしてあらゆる文物、とくに美術品については、それを鑑賞する者の心を清らかに明かるく素直に出来る作品こそが、一級の美術品であるとされてきたのです。

 どうでしょうか。この春草作品にも、濁った心・暗い心・ひねくれた心など微塵もないでしょう。

 ヨコシマなもの・ケガレたことの余りに多い今の世に、当WEB美術館の作品群が、あなたの心の清涼剤に、そしてまた心のお守りになれればこんなに嬉しいことはありません。

 

 

2008年 冬季展

「霊峰不二」
大正14年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 32.0cm×82.8cm
「霊峰不二」

 大観と言えば富士、富士と言えば大観、よくこう言われます。大観は生涯に、1100点余もの富士の絵を描き残しているからでしょう。

 それほどまでに、大観を引き付けて止まなかった富士の魅力とは一体何だったのか。大観自身の富士観をご紹介して、本作品の解説にかえます。

「富士の名画と言われるものは、昔からあまりない。それは形ばかり写すからだ。富士の形だけなら子供でも描ける。
そうではなくて本当は、富士に映る自分の心を描かねばならないのだ。心とは、すなわち人格のことにほかならない。それはまた、気品であり気迫でもある。
富士を描くということは、己自身を描くことと同じなのだ。己が貧しければ、描かれた富士もまた貧しい。
心に大いなる理想を持っていなければ、富士の真姿は決して描けないということだ」

 

 

「三保」
明治43年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 116.7cm×50.3cm
「三保」

 動と静、陽と陰、情と理、大観と春草の個性は全く対照的でした。

 富士を好んで描いた盟友大観とは対照的に、春草には富士を描いた作品がほとんどありません。強烈な思い入れをもって富士を描き続ける大観に、春草はよい意味で遠慮したのかも知れません。

 本作品は、そんな春草の数少ない富士の絵です。しかし題名からも分かるとおり、富士は主人公であって主人公ではありません。春草が描きたかったのは、富士そのものへの憧憬ではなく、富士のある日本固有の美しい天然全体ではなかったかと思われます。

 それにしても、この構図の巧みさはどうでしょうか。百年以上も昔の絵とはとても思えません。理知の人菱田春草の面目躍如たる名品です。

 

 

2008年 秋季展

「海濱之月」
明治42年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 49.5cm×124.5cm
「海濱之月」

 

 大観と春草は、あの日露戦争と全く軌を一にして、アメリカからヨーロッパへ絵画研究の大旅行をしています。開戦とほぼ同時の明治37年2月に横浜港からアメリカへ旅立ち、翌38年4月までニューヨーク・ボストンに滞在し、その後ヨ―ロッパに渡って、イギリス・ドイツ・フランス・イタリアを回り、終戦とほぼ同時の明治38年8月に帰国しているのです。

 日露戦争の勝利が日本人を慢心させ傲慢にして、昭和20年8月の亡国間一髪へとつながっていくのですが、二人の天才芸術家は違いました。欧米美術採るに足らずと、日本美術の圧倒的優位性を確信したところまでは同じなのですが、西洋画との優劣競争や世間の評判などには目もくれずに、自らの美意識の研ぎ澄ましだけに鋭意専心し続けたのです。

 時に大観38歳、春草33歳で、明治44年に春草が37歳で夭逝するまでの数年間が、春草にとってはもちろんのこと、89歳まで長命した大観にとっても、純粋な意味での芸術的至高点ではなかったのか、私播磨屋助次郎にはそう思えて仕方がないのです。

 そんな時代の、そんな二人の、月をテーマにした二作品を取り上げました。

 感じ取って頂きたいのは、そのピュアな精神性です。絵画が写真やイラストと根本的に異なるのは、作者の精神性が色濃く反映されているという点にあります。従って絵画鑑賞の要諦は、画家の心に自身の心を重ね合わせることこそにあるのです。

 ピュアな心で描かれた絵画は、鑑賞する者の心をもまたピュアに浄化してくれるのです。「大観・春草」が心の清涼剤と言われるゆえんです。どうですか。すばらしい絵でしょう。皓々たる月光を浴びて、身も心も清められる、そんな気がしてはきませんか。

 

「武蔵野之月」
明治42年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 40cm×104cm
「武蔵野之月」

 

 「神」とは──大自然は、絶えず新陳代謝をくり返しながら、より一層完璧なる完全調和を目指して、永遠に進化し続ける一大生命体である。大自然をそう存らしめている、自然の流れとでも言うべきある種のエネルギー作用、それを「神」と呼ぶのである。

 今から丁度20年前、弱冠39歳の私が生まれて初めて上梓した『神々の革命』の巻頭の一文です。そしてその文意を具象化して、より分かりやすくするために添えたのが、春草のこの絵でした。

 どうでしょうか。当時の大観・春草と同年代だった私播磨屋助次郎の、純粋な熱情を感じ取って頂けますでしょうか。私の言う「神」が、この絵の中に観えますでしょうか。

 ああ・・・何となく分かる気がする。それで十分です。その瞬間にあなたの心は、春草の心と、また私播磨屋助次郎の心と、すなわち「神」なる大自然の心と重なり合って、ピュアに浄化されているのですから。

 

 

2008年 夏季展

「雨餘」
昭和13年 横山大観作
播磨屋本店蔵
大きさ 63.6cm×86.4 cm
「雨餘」
 大観は、昭和33年2月に89歳の天寿を全うする直前まで、燃えるような創作エネルギーを少しも失うことなく鋭意絵筆を取り続けました。

 また日本文化に対する不動の誇りを胸奥に秘めつつ、西洋画の手法さえも学ぶべき長所は学び、生命の続く限り日本画の神髄を追求し続けたのです。

 それは、無念にも夭逝せざるを得なかった盟友菱田春草の分までもという、大観特有の男気の発露だったのかも知れません。私播磨屋助次郎には、そう思えて仕方がないのです。

 そんな広く且つ深い大観芸術のジャンルの一つに、水墨画があります。いえ、大観が終生最も力を入れて描き続けたのが水墨画でした。

 物象をただ単に物象とだけ見ず、その奥にある心象の現われとして観る、東洋的とりわけ日本的世界観の表現手法として、水墨画に勝るものはないと早くから気付いていたのです。

 雨餘とは雨上がりのことです。梅雨の雨上がり、京都東山山麓辺りの情景でしょうか。何か「自然の生命の大いなる躍動」のようなものが観えてきませんか。大観が真に表現したかったのは、その「躍動」に相違ないと私は思います。

 

「帰舟」
明治39年 菱田春草作
播磨屋本店蔵
大きさ 50.6cm×85.5 cm
「帰舟」

 大観は動的男性的な情熱の人、春草は静的女性的な理知の人、私播磨屋助次郎は二人を大きくそのようにとらえています。

 生来の性格に加えて、生まれ育った土地柄(水戸藩と信州飯田藩)が少なからぬ影響を与えたものと考えられます。

 この作品にも、そんな春草の理知的な人柄がはっきりと見て取れます。

 信州の千曲川でしょうか、それとも東京近郊の利根川なのでしょうか、ゆったりとした流れに乗って、三隻の川舟が波音ひとつ立てることなくゆっくりと押し進められてゆきます。

 記録によると積荷は麦わらだそうですが、戦後生まれの私には知るよしもない、明治日本ののどかな初夏の田園風景です。

 百年以上も昔の絵とはとても思えないような、ある意味現代的とも言える計算されつくした構図の妙は、まさ
しく春草の面目躍如たるところで、当美術館所蔵の多くの春草作品の中でも一推しの名品だと思います。